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『佐村河内守という音楽家』 2013年4月 マンスリーレポート代わりに…

4月に入っても、まだ時々雪が降る北海道富良野。でも春の生命の息吹はいたるところに感じられるようになり、私も虫のように外での活動も活発化してきました。が、チンタラとそんなことのレポートを書くよりも、書いておきたいことがありまして…。

たまたま、テレビをつけて休憩しようとしてた時、「佐村河内守」という音楽家の特集をやっていました。恥ずかしながら私、あまり現在の音楽シーンはレコード会社や様々な企業の策略にうんざりしていて興味持てないこともあって、ほとんど追いかけることはしていません(特に今のポピュラー系は”もういいです”って感じです)。たまたま耳に入ったものが良ければ、それは良い物だと思うようにしているのです。おっと話がずれました。

この音楽家、作曲家といったほうが正しいでしょうか、聴覚異常になり、35歳には全聾になってしまったそうです。全く耳が聞こえない上での作曲…。常に耳鳴りがなっているそうで、その轟音の中に浮かび上がる「音楽」を脳の中で聞き分けて作曲している姿(座り込んで集中しているだけです。楽器は当然ありません。)の映像を見ると、考えただけで恐ろしくなります。

そして、作曲したその曲が演奏されても、聴くことが出来ないのです。スタンディングオベーションも聞こえないのです。

つい先日、「交響曲第一番」の全3楽章が放送されたので、聴きました。全聾で書き上げた曲であるという先入観は、どうしても拭いきれませんので、冷静な判断はまだ出来ていないのですが、「これはいい」とか「素晴らしい」とか「すごい」とかという表現ではどうも伝えられそうにないです。70分も続くそのうねりの中で、様々な感情と恐怖・絶望が現れては消え、そして希望の光へと導かれていく。ごく一般的な陳腐な言葉を並べればそういうことになるでしょう。hope

あまりにも弱小すぎるとはいえ、私も音楽家の端くれ。音楽的な「技巧」にも耳が行くわけですが、その細やかさに驚くわけです。最近すごくいいなあと思って良く聞いていたクラシカルミュージックが、子供だましに聴こえてしまいます。妙なショックを受けました。

自信なくすとか、負けすぎたとか、そんな感情にはならないですね(「当然でしょ、あんたレベルなら」と言われそうですね)。これは次元が違います。いくら音楽を勉強しても、こういうことは多分やれるようにはならないと。「僕はどんなにガンパッたって海になることは出来ない。そんな次元の問題です。」とでも比喩出来るかもしれません。ひとつ言えるのは「オレは何をやっているんだ…」という事でした。

言葉では伝えられない、というコトを先に書きましたが、私はある人にこの話をしてみて自分の感じた何かを伝えようとしてみました。でも、伝えられなかった。言葉にすると、全部ウソっぽくなってしまう(そういうことは私にはよくあるんですが)。この文章も同じです。後できっと若干の後悔が出てくるでしょう。それがわかっていてもこうして書きたかったのです。

 

2014年5月追記:交響曲第1番《HIROSHIMA》などは、ゴーストライターが作曲していたということが判明した後、この記事を削除すべきか迷いましたが、人の愚かさを忘れてはいけないという自戒の意味も含め(自分がゴーストライターを起用しないようにという自戒ではありません)、このまま残しておくことにします。関連記事は「佐村河内守ゴーストライター事件で思うこと」に書いています。

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