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楽器そのものに宿る力 ~後編~ [Monthly Report 2015-06]

最高の音は私はすでに体験してしまった。もう20年位上も前の話になるのか。どこかで書いたと思うが…。
舞台の照明や音響のアルバイトをしていた時。あるホールに、スタインウェイのフルコンサートグランドピアノを設置した。ちょっとどんな音が出るか試したい欲求に駆られ、ひとつの鍵盤を押してみた。

ただの、一音。

それが、ホールという音響空間のせいもあって、ものすごく心に響いてきた。それは、間違いなく「音楽」だった。たった一音がどんな複雑な音楽よりも、とても音楽的に聞こえた。その場に崩れそうになったような感覚を今でも覚えている。「俺が今まで追求してきた音楽はなんだったんだ?必死に複雑なフレーズを弾き、響き渡るハーモニーを選び出し、それを構成して曲に仕上げたのは、いったいなんの意味があったんだ?」とさえ思えるような、強烈なインパクトが私には沸き起こった。

もう一度書きます。たった一音、ぽーんという音、それが「音楽」だった。

3,000万円もするという最高級の楽器、数十億円かかっているだろうコンサートホール、それが生み出したその音は、結果的には「なんだ、お金でしょ」なのかもしれない。けれど、それだけ素晴らしいとえる「芸術」にまで上げるという追求をすれば、(コストがかかるのは仕方がないとしても)追求はできるということ。

もっともこの例は、私の音楽家人生の中で極端な例ではある…。

 

つい先日の話であるが、私の愛機RD700NXとサポートしているバンドのライブ用セット(鍵盤としてしか使用しない電子ピアノとソフトシンセのピアノ音)で同じフレーズを弾いた。

明らかに「(演奏の)うまさ・表現力」が違うのです。

鍵盤の感覚というのも大きいけれど、音の感覚というのも非常に大きい。自分が出したい音(それは自分のこころとつながっている強度といってもいい)が出やすいのは、RD700NXのほうだった。これが、(それなりにしっかりしている)生のピアノで音響がよい部屋で鳴らしていたらと考えたら、おそらくそちらのほうに軍配があがるだろう。

楽器云々に演奏を支配されない達人であっても、良いほうの楽器を選ぶだろう。そういうことです。

反論は多々あると思うし、「何をアタリマエのことを」という意見ももっともだと思う。でも私は、音が人間に与える影響は計り知れないということを今後の人生でも表現していきたいと思う。今は自分の出す音が良いとも思えないし、コストの問題もあって、追求は難しい場面も相当多いので、これを追求するのは非常に難しいのは重々承知である。それでも、私の出来る範囲で、最高の音を出して行きたい。

かねてから、私は楽器の良し悪しは演奏力(表現力)に大きく影響すると豪語してきているのだが、私にとってこれは本当に大きな意味を持つことなのだ。楽器だけではない。道具全般に言えることでもある。
主張したい何かが、楽器・道具(英語では両者ともInstruments)にある気がしてならない。

表現は音に、音は表現に、それぞれ生半可ではない影響があるのだということを、…それも私の表現にしていきたいと思うのだ。

 

そんな、音とか音楽に身を捧げるためにこのようなヘビーな生き方をしている私に、先はないかもしれない。クレイジーだと思われても「全くそう思います」と言うだろう。人間として狂っていると言われても仕方のない生き方をしている。苦しい。はっきり苦しいと言える。でもそれしか私には出来ないらしい。

 

後記

6月前半は7月4日発表「REGENERATION」のミックス、6月後半は、映像作成などに追われ忙しい日々を送っていた。その中で、生活のためにやろうと決めたパン屋「Marbleふらの」の開店に向けてのラストスパートも始まっていた。新しい人との出会いもあり、会合に出席したりもした。7月18日にはサッポロ・シティ・ジャズに出演もする。8月2日にはサポートしているバンドのライブに出演、8月19日には吉田悠二プロジェクトとしてサッポロファクトリーウィークデーライブもスケジュールに入った。そして9月には旭川で…。とまあ、目白押しの今年後半戦の最中である。

 

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