「なぜ俺はここにいるんだったっけ?」と考えなおしてみた [Monthly Report 2016-03]
皆、目の前の事に追われて、どこへ進もうとして今進んでいたかなんて、はっきり意識できなくなっていることは多いんじゃないかと思う。私は、過去の経験から、この状態が続くと心身に支障を来たすのをわかっているから、無理やりその時間を作ることがある。
「なぜ俺はここにいる?」
かつて「大混乱と空白の時」を経る中で、強烈に”自然(nature)”に惹かれた。自然に近い場所で、自然な生き方で残りの人生を終わりたい、そう強く願うようになった。その方策を学び(多くは書籍からだが)、考えて行動した。自分の何かを捨てた。それは重荷を捨てたのではなく、大切な自分自身の一部を捨てた。長い期間、惨めな思いの中ですれすれの生活をしながらその地を探した。もう潮時だと思ったころに、今のこの地と巡りあった。なけなしの金を使って、ようやく見つけた「死ねる場所」。その時、本当に強く思ったのは、「ようやく死ねる場所が見つかった」とい安堵だった。
それくらいに、私は逃げまくっていた。
私が探していた土地・場所は、とてつもない山奥だったりもした。広大な敷地が必要だった。私には空間が必要だった。だから、人が住まないような場所(山林)を探していたのだ。いくつもそうした場所をめぐったが、結果的にそれらとは縁はなかった。そんな生き方と相反して、音楽への情熱はとどまらなかったし。落ち着いたのは集落の中であり、かつて人が住んでいた場所であった。「まだお前はここでしか生きられない、ここで生きろ」と神に言われたのかもしれない。
本能とは凄いもので、それでも「生きたい」と思う自分の根源からの欲望に突き動かされ始めた。ある時気づく。
「死なない。俺は生きられる限り死なない。」
自分への意識が高過ぎるのは、残念ながら私の性分なのだ。外へ意識が向かうのは、なかなかなれないらしい。しかし、この世界で生きるとはどういうことなのかを何度も考えなおしていくうちに、「外に出るしか無いのか」ということにも気づく。
非常に内向的な自分と、”やろうとしていること”の大きさのギャップ、技術力と経済力(お金に限ったことではなく)、それらのアンバランスさが際立って来ている事にも気づく。ちぐはぐな存在はとても孤独を感じさせるようになる。そのうち「孤独を感じて正解なのか」とも思うようになる。
外に向かって何かをすればするほど、私は孤独を感じる。本能はなぜかそれを恐れる。
しかし、私がここに来たのは「死ねる場所を確保」するため。そしてあとは死を待つ。その時までの暇つぶしが人生なのだ。怖れても何も始まらない。恐れの中で、孤独の中で、生きる。それでいいんだと言い聞かせている。
■後記
春がやって来た。命の息吹を身近に感じられます。ほっておいたら大変なことになっていくので、木の伐採・整理や土地整備を少しずつ進めています。事業の方(パンと菓子の店)で家先にちょっとした店を出す事にしているので、その改装やら整備やら、その他のいろんな準備で追われている毎日です。あ〜、音楽をやりたい(ノ_-。)