人の器 [Monthly Report 2014-09]
つい先日、録り貯めておいたテレビ番組を見ていた。元ファンキーモンキーベイビーズのファンキー加藤さんの特集。ストレートなメッセージを伝える歌が若い方たちに絶大な支持を得ていたファンモンを解散したのが2013年。その後、ソロになってからの苦悩が描かれていた。
そこでの一つの話が妙に頭にこびりついた。詳細は違っているかもしれないが骨子はこんな感じである。
「60歳を過ぎたおやじ(?)が事業で上手くいかなくてああだこうだ悩んでいた時、90歳を超えた祖父が一喝した。『たかが60過ぎの若造が人生知ったような言葉吐くんじゃない』って。僕はまだ30を過ぎたあたりですよ。まだ生まれてもいないようなもんです。」
私とて60歳さえにもまだまだ時間のかかる段階、まだまだ子供なのだ。
人の器の話
心身の休養を摂るために近くの温泉に行ったとき、ふとその話を思い出した。そして、温泉のお湯をすくい取りながらこんなことを考えた。よくある言葉、「人の器」の話である。
人はみな器を持っていて、水(周りからの教えや周囲で起こっている状況など)を受け止ながら生きている。
生まれてきた時は何も持っていないが、しばらくすると両手を使ってその水を受け止めようとする。でもほとんどが流れ落ちてしまう。つまり、その教えを学ぶことや冷静な状況判断があまりできない状態。
成長が始まると、おちょこ程度の器を持つ。それでもかなりの水が流れ落ちてしまう。それがコップになり、やがてボウルになる。取りこぼしを少なくしようと、さらにバケツやタライを用意する。しかし、タライを一人で抱えているのはかなりしんどい。そのタライの水の重さに耐え切れず、全てをこぼしてしまう。人にはそれぞれ支えきれるだけの大きさの器というのもがある。持つ力を増したければ、少しずつ器を大きくしながらトレーニングするしか無いのだ。
そして、必要のない部分は受け止めた後に流せばいいということも、そのトレーニングの中で気づくようになる。全てを受け止め抱える必要はないのだ。この段階になれば、必要なものだけを取り込むことができるようになり、大きな滝の流れの中ででも上手に振る舞えるようになる。時々、巨大な滝を受け止めるような人が現れるが、よく観察するとそれは隣や近くの人と上手にその大きな水の流れを分かち合っているだけだ。流れの分配を巧みにコントロールしながら、自他ともに受け止められるだけの水を受け止めているだけなのだ。そのコントロールを間違えれば、共にダムが崩壊する。それはコントロールする側のミスなのだ。
さしずめ、私は自分一人で大きなタライを持つべきだと思い込んでいる状態なのだろう。そして何度もこぼしてしまっている状態。もう一度、ボウル程度に戻ってみてはどうか?そして上手に取捨選択できる技術を覚えたらどうか?…と。
■後記
北海道はもう寒くなり始めた。富良野岳には雪が積もり始めているのが見える。本当に短い夏が終わり秋が深まるに連れて、冬への不安が湧き出してきます。この美しい秋を愉しめばいいのに。
1件のコメント
おっちゃん
別に、大きい器をもたなくて、間違って水をこぼしても、
そのうち、乾く!
もしくは、
気の利く誰かが拭いといてくれる!
って考えるようにしてます。(仕事では)