北海道の大地で見た光景~宇宙からの言葉~
雲間から差し込む太陽の光が、大地に放射状にひろがる。
巨大な地球、そしてもっと巨大な空、そしてもっともっと巨大な太陽、そしてそれらを包み込む宇宙。
素晴らしい空間に我々は生きている。それを感じさせてくれる太陽の光。
素晴らしい。
「素晴らしい」という言葉があまりにも陳腐に感じる。この北海道の大地が魅せてくれるこの宇宙の有様は、他の地域で暮らしていてはなかなか味わえない。ましてや大都会では。
ちっぽけな人間社会。ほんのわずかな息吹しかないのに、我が物顔で傲慢に生きる人間たち。
この景色をみれば、何か分かるんじゃないか?と思う。
私には、こんなメッセージが聞こえて来た。
『ちっぽけで弱々しく、思い上がった人間たちよ。お前たちはその地球で何をし、どうしようとしているのだ。しかし、お前たちがどうあがいたって、この宇宙を支配する事などできないのだよ。どんなに壊した所で、お前たちには何も変えられない。
少しの間だけ繁栄するが良い。お前たちは自分で自分たちを苦しめ、滅びて行くだろう。
戦争?核拡散?温暖化?テロ?そんなことで地球は壊れはしない。今お前たちは、ただそうやってもがいて苦しんでいるだけだ。
われわれ宇宙は、お前たちの想像よりも、遥かに巨大で遥かに偉大なのだよ。』
宇宙の壮大さ(いや単純に人間の小ささと言い換えた方がいいか)は実感する事が普通ではできない。こういう光景をみれば少しは分かる様な気がする。
100人の村という話。あの例えで語られると、いろんな事が理解しやすい。サンプルが1000人にもなれば、もう人間は理解を超えて行く。
普通私たちは、30~40人の周辺社会しかとらえることができないだろう。学校での1クラス程度だ。多くても百人程度か。部分部分ではとらえる事ができても、一つの単位としてとらえることができないのが人間の限界。『そのテレビ番組を今1000万人が見ている』という状況を、つぶさに理解(あるいは想像)できる人間は誰もいないだろう。数字や概念では理解できても、実際の光景をイメージできる人間などいるだろうか?1000万人の顔が目に浮かぶだろうか?
そんな”自分の周りしか見られない”毎日を生きていると、人間はどんどん傲慢になって行く。極端に言えば、『私が生きているから宇宙があるのだ』と無意識に思い出す。この大きな世界に生きている事を実感できないから。
人間とは、かく弱きもの。
モノが溢れ、情報や刺激にあふれる現代。
やはり我々は、行き過ぎているんじゃないだろうか。
欲に任せて発展しすぎているんじゃないだろうか?だから幸せになれないんじゃないだろうか。
こんな世界しか知らないで育ってきた。
モノがある、情報がある、そういった幸せのある中で育ってきた我々は、それらの存在が『当たり前』として捉えてしまう。だから、その上で「もっともっと幸せに…」「もっともっと気持ちよく…」と考えだす。本当は充分なのに「あれが足りない」「これが足りない」と言って・・・・・。
産業革命、経済発展、経済成長、技術革新・・・これらは本当に必要な事だったのか?
そんな今までにも何度も考えて来た同じ事を、技術の粋を集めた快適な特急列車の中でコンピュータを前にしながら考えている・・・私はかく弱きもの。