頑張れば出来るという刷り込み、春、砂粒の存在
多くの日本人は、無理をして頑張りすぎてしまう悪い癖がありますね。
頑張らないと、何かを保てないというのも事実ですから、そのバランスがとっても簡単にはいかないですね。
「頑張ればできる」という社会の刷り込み(洗脳)は、間違いだとは思いません。私とて頑張れば出来てきたことが数多くあります。
しかし今、本音を言えば「他人の目や声を気にせずに、自分の心と体の声を聞いてバランスを自分でとる」という言葉も、同時に刷り込んで欲しかったですね。
この数年、ちょっと気にかけて修正しようとは思いますが、幼少のころの刷り込みは簡単には刷新できるものではないですね。だって、”頑張って”自分の心と体の声を聞こうとしているんですから。
このところ、ようやく訪れた春を満喫することを心がけています。本当は仕事をすべきと思うところを、あえて否定して、近所の公園へ行きます。
ヒバリが空高く飛びながら喜んで啼く声を聴き、風の中を泳ぎながら、小高い丘をゆっくりと登ります。まだ背の低い草がようやく緑を帯びてきた大地、そして前方に現れてくる広大な山岳の景色。その向こうに広がる空、そして宇宙を想像しながら、ゆっくりとゆっくりと歩きます。時々、足を止めて木々が芽を吹き始めている様子を見たり、去年の大雨で崩れた山肌や折れた木を見たり。
「この世界では、人間はなんて小さいのだろう。」
「俺一人の人生なんて、大したことはないのだ。」
砂浜の中の、一つの砂粒ほどもない自分の存在を感じる瞬間です。
「もっとゆっくり生きればいいのに…」と、自然(と言っても人間に作られた自然が多いですが)が教えてくれます。
なのに、そこから戻ればまた忙しい毎日を必死に心も体を痛めても頑張ってしまう己に、「これも性(さが)か」と嘆く日々が続くのです。
(英語では性のことをnatureというようです。つまりそれが自然ということなのかもしれないですね。)