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『凍る』 2014年1月 マンスリーレポート

朝起きてから顔を洗おうと思っても、凍って水が出ない。それくらいはこの季節当たり前のようにある。でも昨日はちゃんと水抜きを完璧にしたはずなのに…。

午前6時前くらいだと思うが、解凍開始。今日は洗濯をしたいのだ。あちこち解凍を試してみる。で、結果的に洗濯ができたのは10時半。とほほである。

■凍る

PIC_1448水が凍るというのは、思いの外大変。
水道管や蛇口が凍りついた時、一番簡単で早く確実なのはお湯をかけること。「ドライヤーでやればいいんじゃね?」と思うかもしれないが、ドライヤーの熱ではなかなか解けるまでに時間がかかる。そもそも、家の中も零下に下がっているところでドライヤーをかけると、風が寒くてしかたがない。ちくしょう!バーナーで炙ってやりたいとさえ思うのだが、周りが焦げてるならまだしも火事にしたくはないので…。

で、お湯を沸かそうと思うが、肝心の水が出ないわけで。なので前夜に水をペットボトルに汲んでおくのだが、ひどい時にはこれも凍る。最悪は外の雪を解かして水にするのだが、そこまではまだなっていない。

で、なんとか水をお湯にする。そして凍っていると思われる水道管にかける。お湯をかけると周辺は水浸しになるので、雑巾やタオルでふくのだが、これがまたすぐに凍る。凍ったタオルでは水をふくことができない。そんなこんなで悩んでいるとまた凍りはじめてしまう。
一体どこが凍っているのか?それを解明するのもなかなか大変である。住み始めてしばらくこの経験をすると、どこが凍るかはわかるようになるのだが、時々わからないこともあり。そんな時は結局アチラコチラを温めるしかない。ほとんど無駄なストーブ(ポータブルファンヒーター)をいたるところで焚くはめになる。

水抜きのパイプが凍るとこれも大変。なんとか水が出るようになってからも何らかの理由で一旦水を落とすなんてことはよくある。そんな時にはジャブジャブと水が溢れてしまう。放っておけば当然凍ってしまう。

洗濯機の中に水が残っていれば、これまた大変。
アチラコチラ溶かしてなんとか水が出るようになったものの、たいていはまず洗濯機に水が入っていかないことに気づく。それを何とかして(これもいろいろ時間をかけることになる)溶かす。で、とりあえず中にたまったよごれた水(数時間たてば水道管はサビれる)を排水しようとしても、排水がされないことに気づく。あ、排水のほうも凍ってるんだ…。結局、洗濯機のストーブ炙りの刑となる。最初から洗濯機周辺含めて暖めておけばよかったのか…と自己嫌悪。

そうこうしているうちに、なんだ、昼に近づけばさすがに気温も上がってくるじゃないか(といっても外は零下)。それまで待ったほうが賢明だったか?いや、その数時間は一番冷え込むから凍結が進行するだけだ…。深部まで凍結した日にゃ復旧は春になる…。

そしてようやく解けて仕事ができるようになったのが昼。夜になればまた水を抜く。うまく抜ければいいが、ダメなら翌日もこの作業が待っているのか…。

 

■凍結事件から垣間見る「この世の不条理」

「そういう環境なのはわかっていただろう。それを選んだのはお前だ。自業自得だ。お前が馬鹿なだけだ。」そういう声が私の耳では常に聞こえてくる。それを当然のこととして私はここを選んだ。覚悟してきた。対処すればいいだけの話。面倒だけれどもやれないことじゃない。そうはわかっているし先にも書いたように覚悟しているんだが、現実的には他にやらなければいけない仕事は山ほどある。そういう忙しい時に、生活の根本で問題が起こり始めると、イライラもどうしても出てくる。のんびり構えていたらいいのかもしれない。でも、その時間その労力でどれだけの仕事ができるかと思うと…(事実、ヘロヘロになってしまうのだ)。

現代に生きる私達は、生活が変わってきている。生きることが生命を維持することから、お金を稼ぐことに変わってしまっている。お金があれば、私も設備を増強するだろうし、エネルギーを購入して無駄とも思える消費をするかもしれない(もっともそれが私には辛いのでできないのだが)。ここで生活をしていると、「生きる」ことはすなわち「生命を維持する」ことに直結することが多い。だからこそ、いろいろ考えるのですよ。この世の中の状態を。

いろんなことに「おかしいよ!」と素直に言えればいいかもしれないけれど、私自身がそのおかしい世の中の恩恵を受ける中で生きているのも確か。それを棚に上げて主張するのは?さすがに頭を捻ってしまう。もし「おかしいよ!」と言える資格を持つとすれば、私はやはり仙人のような暮らしをするしかないと思う。いや、それであっても必ず人間(というより存在するものすべてであろうが)は、破壊をする。破壊と創造がこの世(人間だけでなくこの宇宙とかすべて)の常ではあろう。しかし、それを「そうだね、破壊をすることはさけて通れないのがこの世の性(さが)なんだよ。」と言ってしまえば、それは極論的にかつ解りやすく言えば「隣人のパンを搾取しても当然なんだよ」と言っていることと相違ない。(あくまでもこれは極論だけど…。)

というような、哲学的なことを考えだすと、また私はあのうつ病という大敵に悩まされることになるので、そこまで考えたら「はい終わり。今を楽しみましょう。今の自分の幸せを求めましょう。」と思考を切り替えるようにしている。とはいえ、昨今この哲学がいろいろな場面で私を悩ませてきており、どうしようもなく精神的に(肉体的にも現れるのだが)参っていたので、ついこうして書いてしまう。

「ま、それもよし」とするようになったことが成長かもしれない。

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