「ヘビーローテション」 [Monthly Report 2017-01]
12月の末辺りから、作曲に専念している。朝から晩まで(いや多分寝ている間も)音楽のことが頭から離れない。曲の一部分が数時間も頭のなかでヘビーローテションされることもよくある。それくらい専念している。けれども、じゃあ創作として新しいものを産み出せているかというと、実は逆で…。
新しいことに挑戦している(オーケストラ曲を創っている)。今までもオーケストラ曲を書いたことがあったけれど、今は本気で書いている。本気でやることにしたので、久しぶりに楽器(オーケストラバーチャル音源)にも投資した。このまま楽譜にして本物のオーケストラで演奏できること、それを目標にしているのが今までとは大きな違い。各楽器の奏法や音域、人数構成…云々、そういったことを考えながら曲作りをしなくてはならない。
(だから、相当苦難の毎日。ま、新しいことをしているのだから壁にぶち当たって当然なのだけれど。)
私は、あるいは多くの人がそうなのだろうが、「思い込み」で”自分にはできない”と決めつけていることがある。それが、近くの人から聞いた言葉だと余計にそう感じるようだ。私にとってその一つが、「弦のアレンジは普通出来ないよ。音楽大学行けるレベルでないとね!」という言葉。アカデミックさまでが要求されるような、ものすごく専門的な勉強をしないと出来ないということらしい。
確かにそうかもしれないけれど、ではその人達は最初っからそのレベルであったから弦アレンジが出来るのかというと、そうではないはず。小さな積み重ねから始めているはずなのだ。なのに、「普通出来ないよ!」と言われたら、「そうなのか~、オレは音大いけるレベルではなかったしなあ~」と自分に言い聞かせて「小さな積み重ね」をしよう思わなくなる。要するに、やる前から諦めてしまうということだ。
今こうして、(無駄になるかもしれない?)オーケストラアレンジを始めているけれど、とても難しさを感じている。それは今までと同じくらい難しい。音楽理論や楽器のプラクティス、レコーディングエンジニアリング等などあらゆる分野で、勉強や経験が必要なことの「難しい」の程度は同じことだと思う。むしろ、自分の中の”難しさの頂点ギリギリレベル”でやっていないと、大した力にはならんと云うことではないかとも思う。
人によってそのレベルは違う。私は私にとってのギリギリレベルで勉強してこの程度の結果になるし、他人様に於いてはまた別の程度の結果になる。その「結果」のレベルで最初から自分の今のレベルとして比較してしまうから(この国の教育制度の悪影響なのだろうが)、やる前からやらなくなる。
そして、何十年もたった今になって「なんでやってこなかったんだろう?」と気づく。
やれば少しだけは動く。動けば何かが変わる。誰しも生まれてすぐには1+1の計算はできなかった。でも勉強と経験を重ねることでもっと複雑な計算が出来るようになる。複雑な方程式は解けるようになるかどうかはわからないけれど、そうなるためには「無理だ」と決めつけず「そこに到達したいのは山々だけれど、そのレベルと今の自分を比較していたらあまりに遠すぎるように思うから、まあやれそうなところからやってみよう」と思えるかどうかが差を生み、長い時間をかけると違いに現れてくるのだろうと思う。
いずれ、「なんだ、僕には複雑な方程式は必要なかった。」となるかもしれない。でもきっとその道のなかで得た何かが、別の何かに役立つときが来るのだろうと思う。あるいは、思い込みだったのではなく、本当に出来ないことに気づくこともある。それならそれで充分じゃないか。
ところで、現代のコンピュータの発達、とりわけ今回のこのエントリーでいえば「バーチャル音源の発達」は、”時間的・経済的理由などで、アカデミックを追求できない原因がある人”にとっては、かなり豊かな時代になったものだと思う。
オーケストラ楽器の実際の演奏方法とその音を勉強するには、たしかに音楽大学に入るなり管弦楽団に入るなりして実体験しなければなかなか学べないと思う。だが、膨大なサンプルライブラリーを持った今のオーケストラ音源(バーチャル音源)によって、奏法と知識をつなげることが出来る実際の経験に近いことが習得できるわけだ。
だから、「何でやってこなかったんだろう?」という疑問の答えの一つが「今までは時間的・経済的に難しかった、それが今はコンピュータの発達で出来るようになった」というなのかもしれない。
数年前に購入したDAWのApple LogicやRoland RD700NXのお陰で、私の音楽は飛躍的に「引っ張り出される」ようになった。今回、もう先がない危険な状態にも関わらず、最後の投資になるかもしれないオーケストラ音源を手に入れたこと、それは非常に大きい事かもしれない。
しかしながら、いくらコンピュータでやれることが多くなったからと言っても、作り出すもの・創作するものは、「自分という人間が発想したものが原点になりフィルターになる」ことに変わりはない。入り口と出口のツールとしてコンピュータは最大限に利用しているが、その本質(私で言えば「曲」)は、自分自身から出てくるものでそれ以上でも以下でもない。如実に自分の真の実力が表れると思う。
だから今私は、その意味で苦しんでいる。(これが限界なのかもしれない、と。)
後記
「本当にやりたいこと」という意味が、またわかり始めた気がしている。とかく、この世に生きていると、社会や時代に振り回され、「やりたいこと」が本人が思っている以上に曖昧になって変化してくる。この世にマッチしている人は、きっとやりたいことと社会・時代がうまく擦り寄っているに違いない。だから社会的評価も高いかもしれない(その為ではなくても、ですよ)。私は残念ながらこの世にマッチしている人間ではないのだろう。上手く迎合できる人格も持ち合わせていない。でもそれが「やりたいことをやってはいけない」理由にはならないことに気づき始めているのかもしれない。(まだ洗脳状態ですけれど)
こうして毎日朝から晩まで音楽のことを考え、創作し、勉強していることに、人生の開放感を感じている瞬間がある。苦しいですよ。はっきり言って苦しい。それに、生活のことを考えたら恐怖に足がすくみます。思ったように曲ができない時は特に苦しむ。今はまだツールの使い方や奏法に頭を悩まされて、創作自体に集中できていない。どれだけのフレーズを書いたかわからない。何時間(ときには何日)もかけて作った曲をボツにするときの虚しさや自己嫌悪。
でもね…。
他の仕事やってるのとは全く感覚が違うんですよ。今なら死んでもいい、そう思えているのかもしれないです。
2件のコメント
おっちゃん
「今度はオーケストラかよ!」
と、つっこまずにはいられなんだ・・・。
記事にあるように、どちらかというと諦めている派
(というか、チャレンジもしていない)の俺的には、
ただただ、その向上心に感服するばかり。
仕事で、子どもの音楽劇の曲を作ったり、
器楽合奏曲をアレンジしたりすることはあったけれど、
オーケストラはさすがに・・・。と思ってしまう。
でも、よくよく考えれば、たいして知識も経験もないのに
ブラスバンド用にLoudnessをアレンジしたり、TMNのメドレーをアレンジしたり、
二人でそんなことやってたんだしね。
どんな曲ができるんやろうか?
楽しみです。
吉田悠二
オーケストラ音源はね、数年考えてようやく導入。
吹奏楽アレンジした経験は、かなり役に立ってるなあ。おっちゃんの部員への指導(指揮者として)も、やっぱりこいつにはかなわんと思ってたし(^o^) 密かにいろいろ盗ませてもらいました(^ ^);
向上心というよりは、「もしあと数ヶ月で死ぬとしたらどうするだろう?」って考えた末の決断でもあった。
曲は、そのうち発表できると思う。そう遠くない時期に…。