『Apple、ビーツエレクトロニクス買収で世界は終焉へ?』 2014年5月 マンスリーレポート
2014年5月末、30億ドル(約3000億円)もの巨額でビーツエレクトロニクスを買収すると発表したApple。ビーツエレクトロニクスとは、ビートミュージック(Beat Music)という”定額でのネットストリーミング配信”をしているアメリカの企業。高級ヘッドフォンが有名らしいが、私は知らなかった。もちろんここで、Appleの戦略や事情についてには私ごときが言及出来はしない。
利用したことが無いので推測でしかないが、(定額で)ストリーミング配信するということは、ユーザーの趣向にあった音楽を自動的に選んで配信するということだろうと思われる。(当然、自分の好きな曲を登録したプレイリスト機能なんかもあるだろうが。)どのようなアルゴリズムなのかは分からないが、相当の工夫もされているだろうと思われる。しかしながらビジネスである以上、利益をどこかから得られる仕組みになっていなければならないわけなので、企業(レコード会社など)がお金を払って、特定楽曲が優先的に配信されるような仕組みも備わっていいるはず。営利広告としても利用されることもあるだろう。フリーミアム的な考え方で「この音楽配信自体では利益を生まないが、これにまつわるシェアを手中に入れることで利益を他で生む」という考え方なのかもしれない。そうであっても、間違いななく「企業の恣意的操作」がされるのは間違いないだろう(iTunesとiPodの例を見ても明らか)。配信する会社(Apple)も配信して欲しい人(レコード会社)も、利益を求めているのは当然なのだから。
インターネットが、デジタル技術が音楽(ソフトウエア)の流通を全く変えてしまうだろうことになるのは、1995年頃にわかっていた。AppleがiTunesとiPodで一気に音楽の世界を変えてしまったが、Appleがやらなくてもどこかが必ずやっていたことでもある。(ハードもソフトも持っているあのSONYがそれやれなかったことが、我々日本人の保守主義を露呈していると私は思う。)
誰もが手軽に音楽を手に入れることが出来るというのは、我々を「消費者」と考えればものすごくありがたく素晴らしいことである。私もかなりネットの音楽流通の恩恵に預かっているのでとても感謝している。店頭でレコードやCDのジャケットを手に取りながら、ワクワクして購入するという愉しみ方は無くなってしまったが、そもそも目的は「音楽を聴くこと」であるので、もっとも効率よく入手する手段となり得たわけであるし。
では問題は何だと言っているのか?それは「ユーザーの趣向にあった」というのが本当に「その人の趣向にあったものか?」ということである。自信の望んでいることなのか?あるいは「望みさえも企業にお任せします」なのか?。私は、どちらかと言えば後者になりつつあると思うのだ。(いつも言うのだが、これは音楽に限ったことではない。ネットを利用する何らかのビジネス・サービス全般に言えること。)
「ネットが無い時代でもラジオやテレビ・雑誌でそれは行われていたではないか!」という指摘はもっともだが、ラジオ・テレビ・雑誌はユーザー一人ひとりの動向を反映することは出来ないわけで、マスとしてしかコントロール出来ない。そこから何を選択するかの判断はユーザーに多分に任されていたという点で、大きな違いがある。
多くの人、とくに今の若い世代(10〜20代)は、以前にもまして「他人任せ」が多すぎるように思う。身の回りになんでも揃いすぎていて、自分から求めるということを知らない子どもたちが多すぎる、と特にこの数年感じるようになった。
音楽が「産業」となったのは久しいが(私の生まれるはるか以前からであるから)、それでも音楽制作者はどこかで「絶対にいい音楽・新しい音楽を創る」という思いを持って制作にあたってきた。社会の状況が変わるにつれて、その思いを表に出してやっていくことはかなり難しくなってきてしまうのが現実だが(たとえばカラオケの功罪)、それに抗して頑張ってきたように思う。「売れなくては音楽家は成り立たない」という小室哲哉さんでさえ、それは「いい音楽を作り出して世界に提供したい」という強い思いからの行動だったのである。(行き過ぎた行動が多々あった小室さんではあるが、それでも革新的で素晴らしい作品は多いと思う。)
多くの人が消費しているものがいいものだ!という理屈は、音楽を芸術の一環として考えた場合は成り立たない。では、芸術とそうでないものの区別はどうするか?それがなされていないのが現状なのだ。だから、音楽の質そのものを高めるアーティストとエンターテイメント性がメインのそれとが、同じカテゴリーでランキングされてしまう。「CD売り上げランキング」など、とうに意味を成さなくなっているが、ビジネスとし利用するにはランキングは格好の材料になるからだ。ましてや、ネットを含めたメディアと流通形態が複雑化した現代では、それらを均一的に集計をとることはもう不可能に近い。それを助長するのが、インターネットの配信にまつわる技術であると思う。
「そもそも音楽は芸術なんかではなくて、太古からエンタテイメントにすぎない」という理もよくわかるし、その区別は容易ではないこともよく分かる。それに対して言及を始めたらおそらく一冊以上の本が書けてしまうくらいの量になるので割愛するが。
「他人任せ世代」の人たちが、「僕は私は音楽好き」だと信じてこれらのサービスを利用し始めれば、きっと気づかぬままに「企業」に操作させられてしまうだろう。ましてや「別に音楽好きってわけじゃない」人においてはいわんや。
「それでいいんじゃない」かもしれない。どうせもうコントロールは出来ないんだから。
ただ私にとってこのニュースは、「人生他人任せ」の人たちを多くつくりだしてしまうこと、それは現代以降においては二極化をどんどん加速させることになるということ(極論のように思われるだろうか)、そして音楽の芸術性の確保が益々難しくなっていくこと、そんな不安を益々抱く要因となったのである。
もっともこの感想は、私が「音楽制作者」だからこそ感じた偏見混じりのことであるのは間違いないのだけれど…。なぜなら、反面「これからもっと面白い音楽に出会えそうだ!」とワクワクしたのも事実であるのだから。これらの技術が埋もれた名曲を探しやすくなっているのも間違いないのだから。そして、「いずれは私も探しだして欲しい」と願っているのも事実なのだから。
後記
猛烈に忙しい毎日で、マンスリーレポートさえも書く暇がない。昨年も何度か書くことが出来ないほどの忙しさに見舞われたが、半分は外的要因によるものだった。今年は私的要因、つまり「自分自身の奴隷」になっているため、忙しくて仕方がない。どこに行っても、奴隷は奴隷なのだろうか。